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絶世

重複精神障害の闘病と日常と幻想を綴る

革命は続く

おはようございます。さいきです。

 

 どんな時でも、いつも、

つらいことがあります。

 

 

でもそれを、誰かと一緒に変えてきたのかと言われれば、違います。

 

大体の問題は、私自身のことで、他人を巻き込むわけにも、悟らせることも出来ませんでした。他人を頼ることが、出来ませんでした。

 

 

そのような時期というのは、友人を心の拠り所にすることさえ、友人が穢れてしまうような錯覚に陥り、出来なくなります。

 

この歳になってやっと心の底から信用して話せたことが、沢山あります。

  

 

どんなに長くいても訪れる問題が、そう簡単に寂しさを埋めたり、歩む速度を一緒にしたりはしてくれません。

 

 

1番大きなことは、彼等は普通というレールの上に乗っていて、私は既に乗っていないところにあります。

 

 

その格差は大きく、理解し合えないことも多いにあるのでした。それでもいいと思えるようになったのが、最近です。

 

友人がいたから乗り越えられた、

だから良かったかと問われれば、

そんなことは別問題です。

友達と現実は別問題なのです。

 

 

レールの上に居れば同じ問題になったかもしれませんが、私はレールの外にいます。友人がいたからと行って問題解決にも心の支えにもなりません。

 

 

そしてそう思ってそういう役割の為に友人を置いていません。私の補助のための友人ではありません。利己的目的はありません。  

 

 

だから、様々な問題とは、友人に知らせもせずに陰ながら1人でやってきました。

 

孤独とつらさと涙を、幸せなレールの上の人々に感染させるのは悪いこと。

 

穢い自分でこの人達を穢してはいけない、と距離を置く。隣が美しいからこそ、自分の穢らわしさが目立つ。比較対象がいるつらさ。そしてそれを公開出来ない程の中身。それを抱えながら笑い溶け込む生活をしようと努力することは、簡単だったと今でも思えないのです。

 

 

「友人が一緒にいたから良かったね」という言葉に答えるならば「一緒にはいなかった」と言うしかないでしょう。

 

一緒にいるとは何をさすのでしょう。

 

物理的距離?

精神的距離?

何かの支え?

何かの気の紛らわせる媒体?

 

その答えによって、その人が友達というものをそもそもどういう風に捉えているのかが分かるのかもしれません。

 

自分より人に恵まれている人は五万といますが、それを自分もしたいとは思いません。出来ないからです。

羨ましいとも思いません。

自分の力の限界を知っているからです。

 

確かに一部の人にとってカーストの頂点は気持ちが良いものかもしれないけれど、きっと、私には何も満たす大事なものとして、作用しない。

あれは意味のないポジションでしょう。

 

レール外の私に、レール上のルールを当てはめて物差しで測ろうとしたりすることに、私は傷付いたり苦痛を感じたり、虚無感を感じます。

 

 

努力しても築いてこれなかったものがありました。でも努力したら築いてこれたものがありました。

 

実のなりにくい木に出来た、やっとの思いの小さな実を斧で枝ごと切り落とされると悲しくなります。

 

あたかも「努力しなかったのね」と言われているよう。責められている気分になるのはなぜでしょう。私は友達すらも持つ価値がないのに持ってしまったから?

 

身の程知らず。お前なんかに、お前ごときに…そういいながらタオルで鞭のように殴られていた競泳時代を思い出します。

 

「そう言われるのは、私の価値が、努力して手に入れたこれに、見合っていないから。」

 

私が掴んでも何も言われない。

許される幸福とは果たしてこの世にあるのでしょうか。

 

GWといえば、思い出します。

数年前、必死の思いで上京し暴力から逃げた日を。明日がどうなるか分からない中で初めてお洋服を自分で選んだ。

 

GWは私にとって、

闘いが幕を開けた記念日なのです。