動かなくなるその時迄
おはようございます。花奈です。
やらなければいけない、課せられたことが沢山あるから。
私はまだ、死にたいとは言えません。
その言葉を口にしたら折れてしまうような気がして、普通の若者の「死にたい…(疲れた)」と言うことも出来ません。
口に出したらこの力が抜けてしまう気がするのです。まだ疲れたと限界を感じてはいけない。まだやることがある。それが何なのか明確には分からないけれど。
歯を食いしばって、這ってでもやることがあったような気がするのです。
人間はいつも100%の力など出さないで、ゆるくゆるく毎日を繋いでいくものなのだそうです。ゆるくゆるくやっていて生きていける道だったならば、それが出来ていたのやも。
今は足の骨から痛むのです。
実際に足先の骨の歪みは年々ひどくなり、外科手術か痛み止めの選択をしなければならないのですが、そんな暇もなく力もなく、痛みで痙攣するのを無視して耐えるばかりです。
足が使えなくなっても、腕がある。
そうして一個一個なくなっていくのでしょうか。
何かに追い立てられるような脅迫感が背中に迫っていて、私は休むことが出来ません。止まったら追いつかれてしまって、今まで血が滲む思いでやった努力が、水の泡になってしまうんじゃないかと怖いのです。
今まで頑張って、涙さえ消して走ってきたのです。止まることはできません。堪えてきた何か莫大なものが、止まることを許しません。
腕がなくなったら首がある。
左目がなくなったら右目がある。
私の背中にかかるものは最早休むことより重く怖い量なのです。
私の中では、私が認識している限り、自分を含めて4人の人がいます。
私は今迄自分の解離性障害をそこまで自覚もせずに危機感も持たずにやってきました。
みんながなんとなく連携をとり、ぐちゃぐちゃの世の中をぐちゃぐちゃになりながらも、渡っていけたから。そんなことが小さいさなことだと言えるくらい、大きな問題が目の前にずっとあったから。
一人暮らしとなり、家族と離れ、年月が経ち、やっと最近は彼らと向き合わなければいけないことが増えました。
不自由を感じています。
前からこの不自由を感じていたけれど、これが当たり前すぎて、「不自由だと言うのには軽いのではないか?まだ不自由ではないのではないか?」と思っていました。
彼らと上手くいっていたら、そもそも彼らは生まれていなかったのでしょう。
だからこそ、なかなか自分では上手くいかないことが多いのです。
人に敬遠されることが増える程、話せなくなっていくものですね。
困っていて話しても、他人なら簡単にクリア出来てしまう課題ばかりなのでしょう。
私にとってそれがもうとてつもなく難題だったり「こうやるんだよ」とやり方まで教えてもらっても上手く出来なかったりします。何故だかはこれも分かりません。
「努力不足かな…」とついいつもの癖で考えてしまうくらいには。
病院の先生に、「みんな君なんだよ」と言われました。そう、みんな私だった者達です。独立する程、ここまで渡ってくる道は険しかったのか。
今日も明日も、他人に何を言われようと、折れないように、前を向いて。